子育てサラリーマンまとん(@mstokwky)です。
肩書に悩みますが、自称・登山家の栗城史多氏が2018年5月21日にエベレストアタック中に低体温症で亡くなっているのが発見されました。
生前から賛否両論が渦巻いていた栗城氏。今回の事故死も「自業自得」であるという論調が強いように感じます。
本人の能力が足りなかったり、判断力が云々ということはありますが、起こった事象としては「登山中の不運な事故死」。
ただ、今回の件は登山中の事故死として片づけてしまうと、大事なことを見失ってしまうような気がします。
誤解を恐れずに言えば、今回の件は「無意識な大多数による、間接的な殺人」であるように思えるからです。
亡くなられた栗城史多さんの件、教訓的に見るならば、登山事故としての側面よりも、行き場を失った若者がまるで特攻隊のような無茶を繰り返し、それを一部の大人達が讃え、当人は死に場所を求めるようにより困難なステージを選んでいった事故としての側面の方が重要であるかのように思える。
— N口 S平 @航海中 (@Nheyhey) May 21, 2018
栗城史多とはどんな人物?
メディアでは登山家と紹介されることが多いのですが、そこに対しては審議が必要です。
一般層や著名人、大企業に至るまで幅広い支持者がいるのですが、もしかしたらそれを上回るくらいのアンチも存在します。
同業であるはずの登山家やその周囲からの手厳しい批判が特に多い。
主に以下のポイントで批判されています。
- 単独・無酸素とうたっているが、登山界の基準ではそう判断できない
- 目標としているルートと実力との乖離
登山ライターでもある森山憲一氏のブログが一番明確にそのあたりを解説してくれています。
特長的なのが単独・無酸素登頂と謳っているが、登山界の基準では、彼の登山スタイルは「単独」でも「無酸素」でもないこと。
また目標としているエベレストの登山ルートが、栗城氏の実力では全く手も足も出ないどころか、そのルートを選択すると確実に死ぬというレベル。
にも拘わらす、彼はそこへの挑戦を目標に掲げてきました。しかも頑張れば達成できるかのように謳い、スポンサーや支持者を集めていた。これを非難する声も多数ありました。
サッカー界で例えるならC.ロナウドとメッシが協力してやっと登頂できるかできないかというルートを、ぎりぎりプロレベルであるJ3の下位チームでもがいているレベルの栗城氏が運に恵まれれればすぐにでも達成できるかのような目標にするにはさすがに無理があるんです。
夢を見るのは大切です。挑戦する気概もそう。
でもそれを、さもすぐに実現可能であるかのように見せ、支持者を集め、スポンサーを募っているあたりに根強い批判があったのでしょう。
少し前まで、テレビでもよく見かけた気がします。
確かにルックスもよく、話し方や立ち姿にも華があり、人間的な魅力にあふれているように感じました。
しかしそれとこれとは別。
今回の事故の背景に広がる世界
冒頭に紹介したTweetにもあるとおり、今回の事故は、実力の伴わない登山家が無茶を重ねた末の死亡事故と単純に片付けるべきではないと思っています。
彼は、「夢」「挑戦」を前面に押し出し、でたくさんの支持者を獲得し、資金も得てきました。
それは栗城氏の才能であり、それ自体には何も言うことはありません。
ただ、支持者が増えるにしたがって、栗城氏は彼らの「理想の栗城史多」であるため、自分の偶像をどんどん大きくしてしまったのではないでしょうか。
本来の実力からかけ離れた目標を設定し、それに挑戦する姿を見せなければならない。その為に自分を必要以上に大きく見せなければならない。
支持者は当然彼を応援します。
エベレストに登頂してくれ。失敗してもくじけない、あきらめない姿を見せてくれ。
実際に栗城氏は7回挑戦し、すべて失敗しています。
しかし回を重ねるごとに、深く、遠く、戻れないところへ少しずつ押しやられていったのではないでしょうか。
実力の伴わない栗城氏が、自分で作り出した偶像をやみくもな「応援」という名の善意からなる無言の圧力でどんどん死地へ追いやっていく様はサイコスリラーそのものです。
そんな挑戦を繰り返しているうちについに今回、生と死の境界を踏み越え、戻れなくなってしまった。
これが今回の本質だと考えています。
応援していた人たちに罪は無いのか
彼らを支持していた芸能人や大企業が次々と追悼のメッセージを表明しています。
なかには単独・無酸素で困難なルートに挑み続けた栗城氏を英雄視するようなコメントも出しています。
栗城氏の挑戦には、登山界ではウソだととらえらえてもしょうがないような「無酸素・単独」という言葉が常にありました。
また、本人の実力を大きく逸脱した目標設定でもありました。
たとえば江崎グリコやリクルートはこれらに対して、どう考えてサポートを続けていたのでしょうか。
栗城氏を支持していた著名人の方々は、これらの事実をどう自分のなかで消化していたのでしょうか。
耳障りの言い「夢」「挑戦」へわかりやすく挑んでいくその姿を無責任に応援していたのではないでしょうか。
そんな善意の塊が彼を死へ追いやった今、「惜しい人をなくした」でいいのでしょうか。
栗城氏を殺したのは誰なのか
親は医者。何不自由ない生活を送り、子どもの頃は成績優秀。両親や周囲の期待を一身に受けて育っていく。
いつしか周りのレベルもあがり、トップは維持できなくなっていく。しかし、親の期待に応えようと難関医大を受け続けるも浪人を繰り返す。
それでも親は優しく「やればできる子だから」と応援を続け、逃げ場を無くしたあげくにその身を破滅させていく…
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もはや見飽きたようなストーリーですが、今回の事件の本質はここだと思うんです。
本人の実力や背景を冷静に分析せず、ただただ気持ちよくなる言葉に魅入られて応援する。
本人も応援されることに快感を覚え、目標をどんどん上げていき、最後には到底超えれない壁を作り上げる。
背後からは応援をいう善意の圧力が押し迫り、前方には自分が作った壁。
やがてはその間に挟まれ、行き場を失い命を絶つ。
これがすべてだったのではないか。
栗城氏の命を絶ったのは自分自身が作り上げた偶像と、それを応援する無意識で善意の声だったと思ってしまいます。
さいごに
命をかけることだからこそ、徹底的に自分を客観視しなければいけなかったのにそれが出来なかったのは栗城氏の致命的な部分でした。
そして指示する側。栗城氏が何に挑戦しようとしていたのか、その中で彼の現在地はどこだったのか。それを冷静に分析できていた人はいたのでしょうか。
少なくとも登山界からは何度も警鐘が鳴らされていました。
しかしその声を足を引っ張る悪の声だと断定し、栗城氏の夢を応援することにのめり込む自分に気持ちよさを覚えていたのではないか。
企業はとくにその社会的責任が問われてもおかしくない事件でした。
「夢」や「挑戦」をやめろと言っているわけでも、目標を達成可能なところまで下げろと言っているわけでもありません。
ただ、たくさんの人を巻き込むプロジェクトであったからこそ、誠実に対応しなければならなかった。
このエベレスト登頂が、一生かかっても成功できるレベルに無いことを栗城氏本人が一番よく知っていたはずです。
夢や挑戦とは何なのか。
それを応援・支持するとはどういうことなのか。
それを見直す機会にしなければなりません。
「彼は自分の道を貫き、さいごに命を落とした。立派だった」という安易で安っぽい美談にしては絶対にいけない事件です。
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さいごになりましたが、栗城氏のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
プロ下山家が下山中にお亡くなり。頃されたんですよ。
助けて、助けてって無線が入ってたのにチームクリキは冷笑しながら見捨てたんですよ。
最初から今回のエベレスト行きは栗城を頃すべく仕組まれてた。
私はそう確信しています。